【二枚の写真】 昭和32年法学部卒業 藤井 淳
二枚の写真を紹介しよう。二枚共、法学部教授で第三代庭球部長でもあった中川善之助先生の写真である。白黒写真は昭和34年法学部卒業の有志の集まり“さんさ会”の渡辺正明氏が撮影されたもので、昭和30年(1955年)10月撮影とある。“さんさ会”会員であり“萩庭会”会員でもある山本三郎氏が渡辺氏より提供を受けたものである。カラー写真はそれから二年後の昭和32年(1957年)11月に撮影された、当時としては珍しいカラー写真である。先生が還暦を迎え、庭球部OB連から贈られた赤いベレー帽・ベスト・ソックスの三点セットを着用され法文コート(片平)で還暦祝いテニスをされたときのものである。翌年刊行された先生の随筆集『赤いベレー』の巻頭を飾った写真である。
二枚の写真はわずか二年の差であるが、白黒の方は“若いなぁ”と、カラーの方は“トシをとられたなぁ”と私は感じるのだが、さて皆さんはいかがであろうか。私は四年前に庭球部八十年史『闘志と友情湧き溢れて』の編集を担当したので、聊か部の歴史や中川先生のことには通じている。
そこで、白黒写真を眺めながら思い出したことなどを書き連ねてみよう。写真のこのとき、先生58歳で翌月には59歳の誕生日を迎える直前である。58歳〜59歳といえば、今日では七大学OB大会(若手ブロック)の主力をなす生きのいい世代であり、私のようなスーパーシニア世代から言わせれば“いい若い衆”である。そう思ってしげしげ写真を眺めると、なるほど若い!けれど、写真をパッと見た瞬間は冒しがたい貫禄がズシンと伝わり、思わず背筋を伸ばしてしまうから不思議である。もちろん、そのすぐあとにはジワーっと温かい包容力に包まれていくのであるが...。このときばかりは、七十歳代の半ばを迎えても二十歳代の学生時代の気分に戻るのだろう。
この写真の部屋は、片平の法文第1号館(今はない)の先生の研究室“北向きの部屋”である。北側にしか窓がないため冬は寒く夏は暑い部屋だったが、落着いていて思索的で『ゲーテのファウストの部屋』といった感じであった。この研究室は三十年以上も不変不動、先生は強い愛着を感じつつこの部屋へ通われていた。背後の書架には、先生の“分身のような愛読書”がずらりと並んでいる。その中には欧州留学中に買い集め、装幀が崩れるまで繰り返し読んで深い感銘と影響を受けた本達もある。右隅にはラケットが!先生は北向きの部屋で研究や著作にふけり、講義のため教室に足を運ばれ、三時ころからは部員相手のテニスをしにコートに向われるという日課の日々を楽しんでおられた。昭和30年のこの年は、7月の仙台での北大戦で9−0と奇跡の完勝で二度目の四連覇を飾った年であった。私もシングルスNo.6で出て、相手の川村選手に痙攣を起こさせて逆転の一勝をもたらした。
そのときの様子を中川先生は『スタンス』で次のように選評を書かれている。
『〜、これでわれわれは待望の四連勝をした。しかも九ラブで勝った。九ラブ全勝ということは容易なことでない。初めから確実に数えられたポイントはダブルスのワン(註:大場・白石組)とシングルスの上位三人(註:大場、白石、片平)だけの四点、あとの一点をダブルスのツー(註:片平・善積組)か善積のシングルスにかけてまず五点は大丈夫と思っていただけであった。あとヤマコン(註:山脇・今野組)にしろ、藤井にしろ、大原にしろ、気象台の長期予報以上の不確かさ、その日の模様でどうなるか判らなかった。それがみんな運命の神に微笑みかけられ、藤井に至っては川村のケイレンで宝くじ以上の幸運をつかんでしまった。こうしたファクターが集まって全勝という記録が生まれたのである。勝負は兵家の習いとはよくいったものだ。しかし運命の神はただ無茶苦茶に微笑むのではない。われわれが幸運を握ったということは相手より練習量が多かったということと、もう一つチームの精神的諧調が取れていたという結果に他ならない。この二つの要素なしにはいかなる神の恵みもありえないということを、我々は此度の戦いから覚らなければならない。』