『スタンス7』に何を書いたか忘れましたが、恐らくその頃の気持ちは今も変わらないと思います。要するに人間はそんなに変わらないものだ、と思っていたら、最近とんでもないことが起きてびっくりしているところです。
実は、『総会案内及び100周年イベントについて』の案内を頂き、直ちに出欠の返事を出しました。その返事には、『総会には欠席。100周年のイベントには、5月25日の手術が成功して生き伸びていたら、出席の可能性もあります。現在は至って元気です』と書いてあります。
ここで一寸話題を変えます。昨年の満81歳以降も、病気と無縁だった私は、東北大学ボート部の後輩(東北大学昭和51年入学、現在名大附属病院皮膚科講師)に誘われるままに、昨年8月愛知池でフォアを60年ぶりに漕ぎ、9月にはダブルスカルも漕ぎました。10月には旧制二高創立120周年記念行事に参加、郷里「奥州市」(昨年発足した岩手県第二の都市で、初代市長は私の甥)にも帰省しました。また12月には、二人で大分の「湯布院」にも行って来ました。
ここで何故ボート部なのか、について説明します。古い話ですが、私は旧制盛岡中学5年生当時、即ち昭和17年11月3日の明治神宮国民練成大会の軟式庭球中学生の部に、岩手県代表として出場し、旧制二高入学後は硬式庭球をするつもりでした。しかるに.翌昭和19年に入学したら、「敵性国家のスポーツをしてはならない」ということで、やむを得ず、硬式庭球は諦めて、誘われるままにボート部に入りました。その後直ちに塩釜の艇庫に移り、殆ど一年間合宿のような『ボート生活』に浸かっていました。
昭和20年8月終戦を迎え、所謂「戦後のどさくさ時代」に入り、東北大学入学の頃から硬庭部復活に本腰を入れ、コートつくりなどに専念していたわけです。
さて平成19年に入り、例年のように1月初旬は、中一の孫と志賀高原で滑り、2月中旬には一人で北海道に飛び、ニセコで滑っていました。平成18年春頃から脚の痛みを感じ、筋肉痛とばかり思っていました。ニセコでも普通に滑り、3月に入って恒例の学生の謝恩会等の行事をこなしていましたが、22日を過ぎても筋肉痛が直りません。(前述の)ボート部後輩の言も入れて、3月26日に日赤病院整形外科に行ったら、あっという間に腰の曲がった老人となり、4月2日のレントゲン撮影その他、4月中旬の検査入院を経て、腰部脊柱管狭窄症の診断を受けました。検査入院後の4月14日には予てからの約束をしていた南山大学の「相原ゼミ生」約65名との会合を無事済ませ、前述の手術(5月25日)を迎えることとなった次第です。