2007年02月05日 「仙台訪問記」 萩庭会幹事長 石川悦三郎(昭和49年卆)
節分の日に仙台を訪れた。
目的は、現役学生の『追い出しコンパ』への参加である。4年生の卒部祝いと現3年生=来年度の主役達への激励である。萩庭会本部を代表しての出席のつもり。もちろん在仙の東北支部から支部長の嶋田さん、幹事長の樋渡さん副支部長の千田さん、幹事の大野さん、若手幹事の三辻さん佐藤さんも参加された。
北大戦の応援がひどすぎると話題になったこともあるが、このような席での最近の学生(後輩たち)は実に礼儀正しい。先生やOBの挨拶の時は部員全員が正座で話し手に正対し、私語も一切ない。体育会らしい気持ちの良い誇るべき後輩たちである。
もう1つ大きな目的があった。
東北大学100周年を機に、萩庭会でも大々的なイベントを(現役の北大戦に合わせて)行おうということである。そのためには、東北支部の協力は欠かせない。その意義と意味そして具体的な内容と役割分担を「ステップ1」として、打ち合わせたのである。
実は、最近 年に2,3回は仙台を訪れている。しかし、主目的をこなすだけに汲々とし、余裕を持って仙台・東北大を散策することはあまりなかった。
<中年の彷徨>
今回の企画を具体的に検討するに当り、原点に立ち返らなければ...。久しぶりに仙台を訪問し、萩庭会の会員は何に期待し、何を望むだろうと考えてみたかった。仙台駅を降りるとまずは、「法文コート」に向かった。南町通りから行く。ブラザーミシンのビルは今もあるが、お世話になった斎川スポーツ店はもはやない・・・。一番町を下り北門から入ることにした。右手に見る北門食堂は営業をしているようだがお昼前のせいか、静かだった。構内の案内板を見、かつての部長岩崎先生や飯野さんがおられた「旧非水研」の前を通り、懐かしい空気を満喫した。ほとんど気にすることのなかった「魯迅」銅像の顔も改めてまじまじと見た。髪はこんなに多かったのかなどと・・・初めて訪れた観光客のように。
正門を正面に見て左に行くとわれらが法文コートだ・・・・・。ただし、現在は「ナノ・スピン総合研究棟」正確には「東北大学電気通信研究所附属ナノ・スピン実験施設」なる研究施設がドーンと建っている。我らが青春のシンボルだった木造の部室跡は駐輪場となっていた。かろうじて残っている桜の老木は枝も少なく、毎年、花を咲かせているのだろうかと心配になる。ただし、昔、喫茶店「ルーエ」があった建物が未だに残っているのは奇跡のようだ。そして、その裏手は枯れ草に覆われていたが、多少の空き地を残していた?!
<西公園コース>
正門からランニングコースである西公園まで歩くことにした。途中にある「高等裁判所」が伊達騒動で有名な「原田甲斐の屋敷跡」だったとは今日まで気がつかなかった。さらに歩き、「大橋」のたもとの警察署まで来た時、ハタと困った。折り返し点が思い出せない。3年間以上、毎日練習の後、走ったはずなのに・・・。30年以上前のこととはいえ記憶が飛んでいる。(後で同期だった大野君に聞いた所、彼ははっきりと覚えていた。「仲の瀬橋」の様相がずいぶん変わったからだろうと慰めてくれたが、思い出せないのは何とも腑に落ちなかった。)
西公園内にある「桜岡大神宮」により、お参りした。ちょうど節分の行事を控え、神社そのものがオメカシしていたが、この神社も正直なところ記憶ない。まして、芭蕉の「奥の細道」の碑があることなど知らなかった。
<川内キャンパス>
広瀬川の眺望を楽しみながら仲の瀬橋から仙台二高の前を通り、川内のキャンパス内を歩いた。構内は工事中のところもあり迷路であった。フットサルのグランドができたり、部室前に若い学生たちがタムロしていたり見慣れない建物と風景ばかりだが、学生たちの姿に息子の姿よりも30年前の自分の姿を重ねていた。確か、入学当時はまだ米軍のキャンプ地跡の建物も散見されていたはずだなどと・・・。そんな感慨に耽っていると「川内食堂」があるではないか?!我々のころに新築だった食堂が昔のまんまの姿で..。コンクリートは老朽化しずいぶんと黒ずんでいたが、まさに当時のまま残っていた。「縦看」などはもうないだろうと思っていたが1枚だけあった。昔と同じような独特の字体で「イラク戦争阻止、ブッシュ・安倍打倒」といった文言が踊っていた。
<静かな感激>
道路を渡り図書館や川内記念講堂がある敷地に入った。そこで驚くとともに感激した。「三太郎の小径」というものがあり、隣接して「中善並木」の記念碑があった。われらが中川善之助先生にゆかりの並木道である。そこの石碑には当時を知る者として、ということで名誉教授の林屋礼二氏がエピソードを紹介していた。「1960年当時の法学部の学生が大学祭の折に焼鳥店を開こうとしたが、大学側から反対された。それを中善先生が「法一亭」の亭主になることを承諾し救ってくださった。それに感激した法学部の学生が売上金の使い道として、緑化と記念になるものとし並木を寄贈した」というものである。(どこかで見覚えがあると思ったら「80年史」にもっと詳しく写真まで載っていた。この辺のことは藤井さん、山本さんが当事者?として詳しいのでしょう・・・。ちなみに、中善先生最後の萩庭会の写真に写っている孫のようだと書かれている現役のキャプテンは渡辺辰君(51年卒)である。)なお、今回見た石碑には2005年と記されていた。それから、私は改めて、阿部次郎ゆかりの「三太郎の小道」を辿った。その小径は記念講堂の裏を通り、芝生の広場の脇(石垣の上)を抜け、大手門の支倉常長の銅像が建っているところまで繋がっていた。京都の「哲学の道」は大好きだが、仙台にもこのような道があるとは知らなかった。しかも、今回は独り占めして、その空間と時空を彷徨ったわけである。実は、「ゲーテの小道」もあることをご存知であろうか。これは東京の北区王子の飛鳥山近くにある。中仙道(現17号)からゲーテ記念館に通じる30mほどの通リをゲーテの小道と呼んでいるのである。(わき道にそれてしまった。)
そんな散策の中でついに、今回の100周年の記念イベントを思いついた。
「法文コートの記念碑」を残そうということである。できれは、タイムカプセルのような玉手箱に萩庭会会員の思い出の品を入れ、皆でそれを埋めてその上に記念碑を建てるわけである。如何であろう?もちろん、その記念碑には「闘志と友情湧き溢れて」と入れたいものである。
2007年2月3日 冬晴れの仙台にて